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宝物のガスバーナー

大切な友人を亡くしました。


Iさんは私の親友のご主人で、偶然にも、シェフ金子と同い年。仕事も環境も全く違うので、なかなか合わない予定をやりくりして、お気に入りのアルザス料理屋さんで、年に数回食事をするのが、とても大切な時間でした。



Iさんとシェフ金子は大の車好き。そしてキャンプと釣りが大好きということで、もっぱらその話で盛り上がっていました。


それに対して親友と私は、車・キャンプ・釣り、何がそんなにいいのか、さっぱりわかりません。いつも悪態をつかせていただいておりました。


シェフ金子が還暦を迎えた頃から「人生の時間もだんだん残り少なくなってきた。もう少しプライベートの時間を大切にしたい」と、仕事漬けで気持ちに余裕のなかった、それまでの自分たちを反省した我々。


これから一緒に、どんな楽しいことをしようか?と将来の夢を話したり、Iさんとシェフ金子が一緒に行くキャンプや釣り、さて、いつ決行しよう?と相談したり、そんなとりとめのない話が楽しくて「これから老いていくのも悪くないな」と思ったりしていました。

 

2年前の5月、Iさんの誕生日のお祝いに、親友夫妻がサン ル スーに食事に来てくれました。その時、彼にはある病の疑いがあり、彼の中ではおそらく悟っていたようで、「やりたいことを後まわしにしちゃダメだ。そのうちなんてないよ」と、我々に真顔で言いました。


今でも、その時のIさんの真剣な顔が忘れられません。私にとって、これほどズシンとくる言葉はありませんでした。


我々はいつも「店があるから今はできないけど、いつかは……」と、何でもやりたいことを先のばしにしてきました。彼の言葉が、我々の思考回路を変えてくれました。


サン ル スーでの食事が、Iさんが外食らしい外食をした、生涯最後の食事になりました。


それからIさんは、自らの会社を始めとする身辺の整理を始めました。凝り性の彼が持っていた圧巻のキャンプ道具を「誰かキャンプをする人に譲って欲しい」とシェフ金子に委ね、「でもこれだけは金子さんに使って欲しい」と託したのが、シェフ金子も欲しくてたまらなかったけれど、全く入手できなかった、憧れの「武井のガスバーナー」の特別仕様でした。


あんなに自慢だった宝物を、いったいどんな気持ちで手放すんだろう? Iさんの気持ちを考えると、今でも涙が出てきます。


キャンプ道具は、Iさんが軽井沢近くの追分に建てたばかりの、熱い思いを持ってこだわり抜いた別荘の物置きに収納されていました。それを我々が、軽井沢に買い出しに行った折に、指示に従って東京に持ち帰りました。


「武井のガスバーナーだけは、僕から金子さんへじかに手渡したい」と言って、それは直接会って受け取ることになっていましたが、Iさんの体調が芳しくなく、とうとう叶いませんでした。激しい痛みと闘いながら、遺される妻である私の親友のことを心配して、2年間頑張ってくれました。


65歳の誕生日を迎える1ヶ月前でした。


Iさんが旅立った夜、仕事柄、お通夜と葬儀にちゃんと伺えるのか不安だったので、自宅で1人でIさんといる親友宅を、非常識を承知で尋ね、お別れをさせてもらいました。


その時にIさん肝いりの「武井のガスバーナー」を受け取りました。できれば、Iさん得意の能書きを聞きたかった。


その20日程後、シェフ金子がようやく時間を見つけて、「武井のガスバーナー」を携えてキャンプに出かけて行きました。



当日は雨が降っていたので「次の機会にした方がいいんじゃない?」と言いましたが、「Iさんの宝物を受け継いだから、後回しにしたくない」と、やっぱり決行です。ちょっと悲しいソロキャンプになりました。


キャンプから帰った夜の夕食時に「俺たちはいつも時間に追われて、時間がない、時間がないとボヤいてばかりいるけど、時間っていうのは自分で作るものなんだ、とつくづく思った。なんてことのない日常が、どんなに有難いことか。それをIさんが俺たちに教えてくれた」 とシェフ金子が言いました。


普段は何かにつけて難癖をつける私ですが、今回は全く同じ気持ちです。


Iさん、大切なことに気づかせてくれて本当にありがとう。

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